飲茶氏の「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」 感想

こんにちは!おしんです。

今日も私にとっての超絶バキな本を紹介したいと思います。

 

前作に引き続き飲茶氏の著書でその名も

「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」です。

 

この本の概要というか結論を一言でいうと最強になれる(?)哲学の入門書です。

どういう風に最強になれるんだ?と思われるでしょうが、本を読み進めていくとだんだんわかってきます。

 

前回の西洋哲学の「史上最強の哲学入門」の記事でもお伝えしましたが、とてもわかりやすく書かれているので、なかなか分厚いですがサクサク読めます。

ではまず西洋哲学と東洋哲学はどう違うのかということからふれていきたいと思います。

 

西洋哲学の真理追究のスタイルは「階段」です。

どういうことかというと、西洋哲学は「無知」から出発します。

 

「絶対に真理に到達してみせる!」

真理到達を目標にいろんな哲学者たちがそれぞれの意見・考えを表現し戦わせ、「より強い哲学」へと切磋琢磨させていくわけです。

 

これに対して東洋哲学のスタイルは「ピラミッド」です。

西洋哲学とは正反対で、「我は真理に到達した」と臆面もなくいってのけるのです。

はじめからピラミッドのてっぺんにいるのです。

つまり西洋哲学は「無知」からスタートしたのに対し、東洋哲学は「真理到達」からスタートするわけです。

 

この本の構成

  1. インド哲学 悟りの真理 ヤージュニャヴァルキヤ・釈迦・龍樹
  2. 中国哲学  タオの真理 孔子墨子孟子荀子韓非子老子荘子
  3. 日本哲学  禅の真理  親鸞栄西道元

ざっくりいうとこのように構成されています。

この記事ではインド哲学のヤージュニャヴァルキヤについて話していきたいと思います。

 

ヤージュニャヴァルキヤ 梵我一如

それではまず、東洋哲学の始まりであるインド哲学から見ていきましょう。

ウパニシャッドインド哲学の奥義)最大の哲学者、

ヤージュニャヴァルキヤ(紀元前650年頃~550年頃)。

彼の哲学は梵我一如(ぼんがいちにょ)という言葉で知られています。

「世界を成り立たせている原理(梵=ブラフマン)」と

「個人を成り立たせている原理(我=アートマン)」が、

実は「同一のもの(一如)」だという理論です。

 

それは、アートマン(我、自己、私)の正体がブラフマン(梵、世界の根本原理)と同一であることを知った人間は、すべての苦悩から解放され「究極の真理」に到達するということ。

そもそもアートマン、つまり「私」とはなんなのか?

「私が存在する」ために絶対必要な条件とはなんだろう?

少なくとも、職業・肩書・個性・性質といったものではないのです。

では肉体はというと、腕や足などを切り離しても「私」という存在は消滅しません。

よってそれらも必要な条件とは言えません。

 

では「脳」は?

そもそも脳とは、簡単にいえば、脳細胞(ニューロン)の集まりであり、その脳細胞が電気信号を送りあって情報を処理する機械のことです。

この情報処理の機械が「私」の正体なのでしょうか?

そういいたいところですが、「そうだ」と断言することはできません。

その理由は、「脳」がどうやって「意識現象」を生み出しているのかはわかってないからです。

「脳」がやっていることはどこまで突き詰めても、情報を処理するだけなのです。

「脳」=「意識現象」は成立しません。

この問題は現代でも解明されていません。

よって、「脳」=「私」というのは成立しません。

なのでだいぶ説明を省きますが、「意識現象」=「私」ということになります。

(飲茶氏の説明には遠く及びませんが……)

ヤージュニャヴァルキヤは、「私(アートマン)とは認識するもの」といっています。

「認識するもの」=「意識現象」=「私」

ですので、「思考」などの精神活動も「私」とは言えません。

「思考」とは「脳」の情報処理に過ぎませんから。

そして彼は、「認識するものは認識できない」といってます。

「認識するもの」を「認識した」と仮定します。

だったら「認識したもの」を「認識するもの」が存在しなくてはなりません。

このような無限ループにおちいってしまうので

「認識するものは認識できない」となります。

つまり「私は私自身を認識対象にできない」のです。

それと、ヤージュニャヴァルキヤはこうも言っています。

アートマンとは「~に非ず、~に非ず」としか言えない、と。

アートマン(私)は、決して認識対象にはならないのだから、

「私はAです」「私はBです」ということはできません。

なぜなら、「私は〇〇です」というときの「〇〇」とはすべて「認識対象となったもの」だからです。

「『(絶対に認識対象にならない)私』は『(認識対象となった)〇〇』である」という文章は実は全然成り立たないのです。

ですから、もし、どうしても「私」という存在を言語で表現したいとすれば、

「私はAではありません。私はBではありません。(私はAに非ず、Bに非ず)」

という否定的な言葉でしか言うことができません。

なので、彼に言わせれば、全ての「不幸」は「私(アートマン)」への無知から生じる、ただの勘違いにすぎないのです。

目の前で、どれほど悲惨で破壊的な現象が起きても、「認識するもの=私」を傷つけることはできないのです。

「痛い、悲しい、苦しい」と言ったものは、「脳」による情報処理にしかすぎないからです。

ヤージュニャヴァルキヤは、「私」という存在の本質をこう述べています。

「それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない」と。

この境地に達した時、この世のあらゆる「不幸」は消え去り、自己は「無敵」になるのです。

以上拙い説明でしたが最後まで読んでいただきありがとうございました。

私自身、この本を全て読んで最強になれた気がします(?)

この記事を読んでくれた方にも是非読んでほしいと思っています。

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